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[C21]

先輩がただの気の迷いで言ったものだと勘違いしてました。恥ずかしい限りです。

>本来敬愛すべきムギお嬢様に対し、抱き締めて
>差し上げる「むぎゅうううううううう」や鼻腔を擽る
>髪の香「クンカクンカ」といった行いを通り越し、
>ペロリスティックな即自的欲求が先立つ危険性
>が高い

ペロリスティックな欲求ってwwww
  • 2010-11-17 15:17
  • ふっきー
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[C22] ?

なるほどわからん。
  • 2010-11-17 22:51
  • がはらさん
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[C23] さすがに

調子に乗りすぎました…
後で「厄介学ブログ」を別に開設してそこに移設します。
  • 2010-11-18 01:04
  • katoo
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sage

おはこんばんちわ。動画うp中に暇だったらば驚くほどクソなクソ記事を書いてしまったので深夜のテンションを言い訳に投稿してしまいます。
ほんとうにごめんなさい



※引用とかもう何から何まで全部嘘です。



日本厄介系研究学会


ペロリズム化する社会(ムギ・プライマリーに関する調査研究報告書)

Katoo

 先日メンバーの方との会合で自己紹介させていただく機会があったが、日頃人とコミュニケーションすることが苦手な私は、差しあたって場当たり的なお茶濁し「好きなけいおん!は純ちゃんです」に代えさせて頂いたが、その言動を巡っていささか非難や戸惑いの声が挙がっている模様である。

 ご存知の通り、私はけいおん!放映中も以後もずっと、ムギちゃん推しとして首尾一貫してきたものである。その甲斐あってか、今度の発言については、『転向』という疑いの目を向けられ、一表現者としての進退問題までも含めた、抜き差しならない局面を迎えている。

 誤解を招いた発言であったこととは認めたい。
 
 しかし、これは、断じて『転向』ではない。その意図が十分に伝わらなかったために起こった不幸な出来事であるが、私の本意は別の所にある。今日は私の「純ちゃん推し」発言の正確な意図について言明しておきたいと筆を取らせていただいた。

 結論から言おう。これは我が敬愛する寿紬お嬢様へのファン、プライマリーグループ、信者への警鐘であると思っていただいて良い。拡大する「グローバル・ペロリズム」に対して、我々ムギ・プライマリー及びけいおん厨、延いては日本国民が真剣に議論すべき時に来ているというものだ。

 まず、ムギ・プライマリーが置かれた現状について簡単にまとめておきたい。けいおん!放映以後着々と支持を拡大し、国内有数の市場規模を誇る寿グループとその信者であるムギ・プライマリーであるが、その実態も一枚岩ではない。私が見た所、2010年現在のムギ・プライマリーは大きく分けて3系統に異なっている。

1、包摂主義(むぎゅううううううううう)
2、紳士主義(ムギお嬢様の下僕)
3、グローバル・ペロリズム

 これらの詳細な議論に向かう前に、その背景にあるグローバリズムないしグローバル化の問題に着手したい。グローバル化は、政治経済的な米ソ冷戦構造崩壊後アメリカの一極集中「覇権」として、日本では小泉構造改革以後の格差社会、及びそれに対する批判として政財界からマスメディアまで共通の認識土台となっている。ただしグローバル化とは、一つの政治的ドグマ、まして「アメリカン・グローバリゼーション」という聊か陰謀論めいた文脈の下には収斂できず、「近代の必然」(フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』、99)というべき、一つのパラダイムとして認識すべきである。グローバル化を一つのパラダイムと見る方法は、W・ステインの世界システム論(74)「技術革新の限界と市場の垂直統合が、南半球の半植民地化をもたらす」等、また、より成熟社会の産業構造に着目するものとして、ダニエル・ベル『脱工業社会』(62)「第三次産業が第二次産業を席巻する」や、より労働疎外の問題を先鋭化させたものとして、アラン・トゥレーヌ(70)「テクノクラートvsプロレタリアート」などが挙げられる。
 
 しかし、総じて言えば、グローバル化とは金融経済の世界的統合のみならず、人、金、文化、情報サービスといった様々なフローが、ネットワークを通じて流動化することを意味する(ジョン・アーリ、2000)。インターネットを通じて、我々は大統領選やW杯を共時的に体感することができる。一例を挙げれば、初音ミクが英・デイリーメールの一面を飾るといった文化的グローバリゼーションである。断わっておきたいのは、これらが「国境を超える」分にはまだ良いが、ミクが電脳世界の天使である以上、その結節点は「日本とイギリス」の様な国民国家性を意味しないことである。国土、国民、母国語に領域化された近代国民国家の盤石性は、「場所」に縛られないフローの増大によって液状化する(バウマン、2001)。アーリの議論に従えば、「ボカロ厨は全世界的にネットワーク化する」と記述する方が正しい。ミクは一例であるが、このグローバル化、すなわちネットワーク的流動化は「ペロリズム」ないし、「グローバル・ペロリズム」を帰結する。
 
 「ペロリズム」は、ペロリスト、ないしあずにゃんをペロペロする人々の一嗜好性である。とはいえ、ミクの事例にも見られるように、ペロリストは「いつ、だれが、どこでも」グローバルな世界的ネットワークを通じて、ペロペロし、結節していく。肝要な点は、ペロリズムの特性として、「寿美菜子ちゃんと子供連れでナフコ熱田店で買い物したい」といった文脈依存的要件を必要とせず、「ペロペロする」という手間を必要としない即時性である。G・リッツァー(99)の言う様に、ウェイ・オブ・アメリカン的合理主義の帰結が「マクドナルド化」だとすれば、効率性や計算可能性を突き詰めた結果の「ペロペロする」行為は合理主義の産物であり、まことグローバル化と相性が良い。ボタンを押せば商品が出てくるように、あずにゃんかわいいよおおおおすればペロペロするといった行為だけが、メタファーとして用いられ、浸透する。
 
 問題なのは、こうした「グローバル・ペロリズム」が、中野梓という一人の嫁に限定されない事である。断わっておくが、ペロリストのシンボルはあくまで中野梓個人に絞るべき、というファンダメンタル・ペロリズムは根強い。しかし、近代家族的「一夫一妻」スキームもまた、グローバル化の名の下に換骨奪胎されていることもまた事実である。情報、つまり嫁もまた移ろいやすく、不安定な存在であり、ペロペロする対象が「取って代わられる」リスクは日に日に増大していく。
 
 ムギ・ファンもまた例外ではない。ムギ・ファンにとっての本来的な在り方があるとすれば、包摂主義(むぎゅうううううううう)か、紳士主義(ムギお嬢様に踏まれたい)である。しかし、先述の通り、ペロリズムというグローバル化が、際限なく押し寄せてくる。本来敬愛すべきムギお嬢様に対し、抱き締めて差し上げる「むぎゅうううううううう」や鼻腔を擽る髪の香「クンカクンカ」といった行いを通り越し、ペロリスティックな即自的欲求が先立つ危険性が高い。ペロペロするのはあくまで足の裏である。
 
 ここまで書いてきたが、一方ではグローバル・ペロリズムに対するアンチテーゼとして、むぎゅうう(ry的包摂主義が掲げられる。そもそも、包摂ないし社会的包摂とは、社会の成熟化に伴い、様々な「脱落者」が出現してきたことから、それらをもう一度社会にコミットさせようという概念である。90年代のEU諸国を嚆矢として、社会科学の最先端かつ最重要課題に掲げられる。無論ここでいう議論も、またグローバル化の産物であり、国際競争の激化や経営合理化が失業者や低所得者、構造的貧困やムーバビリティの増大が移民難民、共同体の空洞化が親類無縁者等を生んだ。
 
 日本でもホームレスやネットカフェ難民といった社会的不安が増大しているが、ニートやひきこもりなど、単に経済問題ではなく、「社会にコミットできない、したくない」という成熟社会の典型的課題である。「自己決定/自己責任」というネオリベラリズムは、「仕事に就けない、就く気がない」ことは「自業自得」であると見なすが、英トニー・ブレア政権以降の「第三の道」における、これらの議論前提は、「仕事に就く、社会にコミットする」以前での母体となる部分、教育や家族、地域共同体などの「生活世界」が、グローバル化を始めとする過剰な流動性によって植民地化されているというものである。生活世界とは温情主義的コミュニケーションが可能な領域であり、関係性の積み重ねによって支えられてきたものだが、一方でグローバル・ペロリズムは「かわいいものはすべてペロペロしてしまう」(ばらスィー『かわいいは正義論』、2001)という合理主義によって、それらを匿名的な「システム」(N・ルーマン、84)としてしまう。
 
 しかし、むぎゅうう(ry的包摂主義は、グローバル・ペロリズムによって空洞化した生活世界、及び社会の持久力を回復するものとして機能する。弱体化した家族や教育、企業集団や地域社会といった中間集団から漏れた弱者を、再び社会の「中」へ帰すものとして「包摂」する。ネオリベ的ルール主義から脱落した個人を、寿財閥の財力によって、その母性によってむぎゅっとするわけである。
 
 とはいえ、包摂すべき社会がどこなのか、包摂不可能な層は排除するのか、といった根本的批判も然ることながら、このむぎゅうう(ry的包摂主義が、かつての様に機能し難いこともまた注視すべきである。その揺らぎと言うべき事態には、先程例に挙げた「寿美奈子ちゃんと子供連れでナフコ熱田店で買い物したい」というアンチノミーに裏打ちされていると言えよう。
 
 この、「ナフコ熱田」「子供連れ」という言説に、私は深い驚嘆と挫折を禁じざるを得ない。説明しておけば、「ナフコ熱田店」とは名古屋市にあるスーパーマーケット、ナフコとは愛知県下のボランタリーチェーン店である。しかし、「ナフコ熱田店」は今年9月に経営不振で看板を下ろしている。そもそもナフコは、2000年代まで多くがイオングループ傘下の「マックスバリュ」に看板を付け替えている。イオングループ傘下のスーパーマーケットと言えば「ジャスコイオン」であるが、ジャスコイオンは同時に現在の地方郊外的生活風景を図る上での重大な指標である。「ファスト風土化」(三浦、2004)によって語られる如く、地域社会の共同性はコンビニ、ファミレス、そしてジャスコイオンといった、便益拡大の「システム」によって消滅してしまっている。
 
 日本の戦後における高度成長は、ニュータウン化、コンビニ・ファミレス化といった「郊外化」(宮台、2009)をもたらし、或いは大規模店舗規制法緩和以後、地域商店街はシャッター街化した。一方ではモラル・ハザードと揶揄される背景には、地域共同体の希薄化に伴い「世間の目」が失われ、「深夜にけいおん!くじを買いに行く」「ごはんをおかずにごはんを食べる」といった若者を始めとする個人主義的なライフスタイルが確立していく事態を生む。そこにのどかな田園風景といった地域性はなく、「美奈子ちゃんと買い物する」生活風景は、「全国どこでも入れ替え可能な」荒廃したファスト風土の中に漂うというアイロニーである。
 
 「子供連れ」というのも切ない。日本の合計特殊出生率は09年統計では1.4を割り、長引く経済不況も重なり、回復の兆しが見えない。核家族+郊外的ライフスタイルが、戦後のもの、家父長制的であるという批判は勿論だが、それさえも若者世代にとってはもはや叶わぬ幻想と化している。断わっておけば、社会的包摂とは必ずしもコミュニティの単位を近代の動力源でもある核家族制に求めていない。EU圏ではシングルマザーの増加とともに「変形家族」が家族形態の一つのあり方として捉えられてきたが、むしろ日本の方がこの問題については先駆的に議論を積み重ねてきた実績がある。
 
 
オーソドックスな議論には、CLANNADにおける「だんご大家族」は「街全体が家族」といった、家庭と地域に連なるコミュティのあり方を提示している。また、「血のつながらない妹/姉」が「お兄ちゃん」「たか坊」と呼称することは、血縁主義的な家族形態に対するアンチテーゼである。とは言いつつも、我々がともすれば「美奈子ちゃんと子供連れで~」と核家族的ノスタルジーを切望してしまうことは、やはり避けられないのだろうか。
 
 まるで今までの論旨を翻すようであるが、「むぎゅううううううううううう」という包摂主義の屋台骨が揺らぎつつある現状、私個人としては、今こそ確固とした「紳士主義(ムギお嬢様の下僕)」の立ち位置を強化すべきであると考える。グローバル化と同列に扱われるネオリベラリズムは、60年代のベトナム戦争反戦運動時に盛り上がったニューレフトが源流であると言われる。おそらくネオリベラリズムも、強固なキリスト教的倫理精神に支えられた宗教精神の下、自由や平等、民主主義といった理想郷を、グローバル化によって描こうとしてきたはずである。しかし、リア充にはオタクのことが見えず、オタクはリア充が憎い。複雑な成熟社会を見通し、確かな社会設計を描くことは困難である。
 
 ここで言う紳士主義とは、いわゆる近代主義やリベラリズムに位置づけられる。近代国民国家の虚構性は長らく指摘されてきたが、本来社会学は、近代とはフィクションと知りつつも、それでも「社会を回すため」共生するものではないか。つまり、「本来ありえぬべき社会の秩序/本来あり得ぬべきムギお嬢様の崇高性」を「不可能だと知りつつも、希求する/ペロペロす崇める」という有り方を意志している。

 既にお気づきだとは思うが、「リベラリズム/ネオリベラリズム」の同根他者関係の如く、実は、「紳士主義/グローバル・ペロリズム」は密接な表裏一体関係にある。ムギお嬢様の下僕を気取っていても、ともすればペロペロしたいという刹那的願望に駆られるというのもまた認めざるを得ない。これも市民革命というイニシエーションの不通過な日本的事情がそもそもの問題であるとは言えるが、今こそ近代とは何か、社会とは何かという根本問題に立ち返るべきである。

 私は何も、ペロリズムやむぎゅう(ry、といったそれぞれの立場を否定するつもりはない。沢庵とは何だったのか、けいおん!とは何だったのかといった我々の社会全体の問題を、今こそ国民全員が議論すべき時に来ている。

 以上、私が「純ちゃん推し」に触れた言葉に隠した、上記の様なけいおん!と、日本社会への警鐘である。浮気ではない。

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